世の中の基礎の基礎にあるもの

とかく表面的なことに流されやすい現代の中で、社会のこと、人間のことについて、"なぜそうなっているのか"ということをいろいろと考えていこうと思います。

ポピュリズムの根源には権力の腐敗あり

 今回の参議院選挙で、比例の最後にNHKから国民を守る党が滑り込んだ。

 確かに注目していなかった人には、驚きだっただろう。党名からは明らかに、乱立する泡沫政党のにおいしかしないからだ。しかし事前の世論調査からは、これも十分予期できた。

 

 さて、この当選を、「ポピュリズム」だと言う人々は、さっそく出てきている。

 彼らの党名や政見放送は、それなりの知性を持った人々から見れば「バカっぽく」、明らかに大衆迎合とも言うべき、過激な言動で権力への反感をあおり立てているように見えるからであろう。

 その非理性的な言動をする人々と、それに反応する人々には、昔からそういった人々の反感というものがある。

 

 しかし、どのような時代でも、そのポピュリズムの背景には、やはり権力の腐敗が存在している。

 

 今回のことは、おおげさに言えば、十六世紀の宗教改革を思わせる。

 カトリック教会と教皇の権力が拡大し、ヨーロッパ中から富が集まるようになった。そしてそれに飽き足らず、贖宥状の販売で一般民衆から金を巻き上げた。しかしマルティン・ルターの発表した「九十五箇条の質問状」をきっかけに、その教会制度に対する反対が巻き起こった。そして、ヴェストファーレン条約で一応の政治的決着が着くまでに、実に120年もかかった。

 

 この宗教改革では、二つの言動が対立していた。

 一つは、民衆側の立場である。教会の行為は明らかに、キリスト教の精神に違反したものであり、ただちに改革すべきものである。しかし、彼らはその一つの正義のために、過激な言動や破壊行為を行ってしまった。 

 そしてもう一つは、教会側の立場である。彼らは、その民衆の過激な反抗に反対していた。確かに、それはどう見ても「正しい」とは言えない言動であった。しかし、教会はまた、その背教行為を、すぐには止めなかった。

 

 つまり、民衆側には「教会が権力をくいものにするのはおかしい」という大義だけがあったのに対し、教会側には、礼儀正しい行為やマナー、適法行為を守るということだけがあった。

 大義だけを重視する側と、課程だけを重視する側、その対立点は、もともとかみ合わなかった。民衆側は、すぐにでも教会が権力の乱用を止めるように求めたが、しかし教会側は、そこには何ら反応することなく、民衆の蛮行を非難した。

 

 それと同じことが、結局ここでも起きている。

 N国の支持者は、明らかにNHKの権力は強大だと思っていて、NHKの何らかの改革を求めているが、その感情について、NHK側に着いている人々は、「非理性的だ」と非難するだけだ。

 しかし支持者の人々の行為がどうであれ、それが妥当であるかどうかに関係なく、「NHKがある種の特権を持っている」というのは、誰もが思うことであろう。

 それが、単なるやっかみや文化的な背景を理解しない行為であるとしたら、そうではないことを説明すべきであろう。

 

 しかしそれを、「ポピュリズム」、「バカな大衆」という言葉で人々の行動を否定することで、同時にその行動の根源にある、権力の是非という問題が見過ごされてしまっている。

 それらの言葉は、「そういう人々」が過去に造り上げ、そしてまた、現代の「そういう人々」が受け継いでいる、というわけだ。

 

 もちろん、とんでもない言動をする人々に迎合しろというわけではない。

 だがおよそ、どんなに無学な人々であろうと、社会の問題に駆り立てるには、その大義には、もっともものがある。

 つまり、彼らの行動は認めることはできないが、その根底にある大義には、まず妥当性が存在する。そのことを知らなければ、いつまでもすれ違いのままであろう。

 

 そして、人々に反抗を起こさせるのは、間違いなく権力の腐敗、不当性なのである。その根源の責任は、権力を持っている人々に存在する。 

 

 

元農水次官長男刺殺事件は、まさに日本の陥っている過ちと同じだ。「まじめ」とい自負を捨てるべき

ハインリッヒの法則と同じように、一つの大事件の背後には、多くの未遂に終わったインシデントが存在する。

たいていは、最悪の自体に至るまでにどこかで歯車が外れる。しかし同じような事態が何千、何万と起こっている内には、今回のように最悪の事態となってしまう。

 

しかし今回この事件は、まさに日本の問題を凝縮したように感じた。

つまり、問題が起こっても、それを直視することなく「これが普通だ」と先送りを繰り返し、ある日突然「もうだめだ」といって破綻してしまう。

実際に、大東亜戦争の悲惨な敗北も、この事件と同じだった。客観的に見れば、明らかに連合国やアメリカを相手に戦争するのは無謀で、実際に負け戦が続いたが、それを国民に隠して、ついに原爆投下という破綻が訪れてしまったのだ。

このような事実には、人々のどんな思い込みがあったのだろうか。

 

「まじめ」という形式拘泥

日本人はもちろん、世界的にもまじめな人々だと言われているし、自負もしている。

しかしまじめというのは、物事を確実に、着実に実行する一方、また形式拘泥を生み出してしまう。

 

「まじめな」人々は無意識の内に、「自分は端から見ても正しく、善良な存在なのだ」という自負を持っている。そしてまた、他人や社会の人々、特に政治家や経営者などの社会の指導者層には、それをより強く求める。

こうして「まじめな」人々は、他人や社会、そして自分自身をも、「正しさ」、というより「正しく見えること」で満たそうとする。

 

戦前、戦中においては、これが「国家のために尽くす」、それはつまり、学校のテストが進学や社会において本当に役に立つかどうかは関係なく、それで満点を取ることが「正しい」のと同じように、「国家の求めることを実現する」ことが「正しい」ということになった。

すると、優秀な兵士になったり、物質的、金銭的な奉仕をしたりして、戦争遂行に協力すること事態が「正しい」こととなる。

そして指導者の側からは、それを妨げないことが美徳であり、「正しい」ことである。その献身は確かに、国民の善意であるからだ。

しかしそのために、国民に負けている、という事実を伝えられなくなってしまった。それは、これまでの国民の善意を無駄にすることになってしまうからだ。

それに、その事実を伝えると、相手の反発を招く。それは相手との「和」を乱すことになってしまう。

こうして、政府と国民のそれぞれの「忖度」から、昔の日本人は自分たちの「正しさ」を、外から否応なく妨げられるまで変えることができず、悲惨な敗戦に至ってしまった。

 

今回の事件も、元次官の「自分は正しい」という無意識の自負が、世間体という名のもとに、長男には問題がある、という事実を認めたくなく、世間から隠そうとしまったのだろう。もし、「自分も完全ではない」ということを自覚していたら、このような破綻に陥る前に、どこかで問題を認識して、解決しようとしていたはずだ。

 

勉学に励み、キャリアを積んでゆけば無意識の内に自然と積み上がって行く「自分は正しい」という自負は、うまく運ばれている日常の中では有益であるものの、問題の認識においては、重大な過ちを持っている。

 

トランプ大統領の「正しさ」

それが具体的にどういうことか、ということを見るのにうってつけなのは、トランプ大統領の存在だ。

彼が事前のヒラリー優位の下馬評を下して大統領に当選したとき、日本ではその過激で「下品な」言動に、反発があった。日本人の感覚から言えば、あのような慎みのない言動をしている人物は、そもそも政治家として失格だ。

 

だが見方によっては、彼はとても「民主主義的な」指導者であると言えよう。

彼は、アメリカの問題がどこにあり、人々の不安と本音がどこにあるか、ということを、白日の下に晒した。もし彼が失敗をしたとしても、その失敗を元に、これからどうやって運営をしていこうか、という指針になる。

明確でわかりやすいイシュー、そして大胆な実行は、正しいことだろうと間違ったことだろうと、問題を明るみに出し、その対策を考えるきっかけとなる。

トランプ大統領の当選は、政治家としての資格云々よりも、現実での明瞭性、実効性を求めるアメリカ人の現実的で実際的な性質がある。

 

そして民主主義においては、その方がよっぽど賢明なのだ。

民主主義が根本的に根付いていない日本はこのまま政治家も国民も、「実効性」よりも「善良な性質」を問題にし、このまま問題を直視できず、破綻に向かって行ってしまうことは、ほとんど確定なのだ。

とにかく、われわれ個人としては、外面がどうか、というより、それが現実にどういう影響を与えるか、ということで見るべきであろう。いつもケンカばかりしている乱暴者も、他の人々が暴漢に襲われそうになったら、善良なだけで勇気がない人間よりも、よっぽど人々のためになるからである。

そのためには、無意識の「自分は正しい」「他人も正しくなければならない」という思い込みを改めることであろう。

 

 

 

 

 

財産や地位があれば、人は幸せに生きられるのか

世の中では、財産や地位というものが、人間の社会的評価にとって大切なものだ、とされている。

そしてまた、それが個人の幸せをも作り出し、それがあれば、もっと楽に、もっと幸福を感じながら生きられる、と思っている人たちもいる。

そして自分にはそれが備わっていない、と感じているために、そのようなものをすでに得ている人々を羨んだりする人々もいる。

確かに人間は「外」から見れば、千差万別で格差はすごい。ある人は、豪華な邸宅に住んでいる一方、ある人は家すらない。ある人は何万、何千万という人々に影響を与える一方、ある人は、誰からも見向きもされない。

 

しかし一方、人間の「内」は、はるかに平等だ。

誰だってそれなりの食事を一日に何回か取らなきゃならないし、何時間かは寝なきゃならない。十分に睡眠時間が取れないまま朝起きることも、誰だってきつい。いくら豪華な食事があったとしても、食べ過ぎれば太って体にいろいろ不具合が起こってくるし、糖尿病になって一生インスリンを打ち続けなければならなくなる。

こういったことは、誰だって同じだ。金持ちも貧乏人も、精神や肉体は平等なのだ。

 

そして、少しでも「正しく生きよう」とすれば、自分のことよりも、他人のこと、仕事のこと、家族のこと、社会のことを考えなければならない。それに、そのような精神的、肉体的誘惑に打ち勝とうとしなければならない。正しいことをしようとする限り、その事実は変わらない。

人間はただ、自分が置かれている今現在のその「内」と格闘し、自分を高めたり、技能を磨くことしかできない。

 

「行動」における人間の真実は、このような単純なものであり、それにまた、世の中のあまりに多様な権利、社会問題に対する人々の態度は、なんとかその真実から目を背け、自分がそんな面倒なことにかかずらうことを回避したい、また自分がいまのままでよいと思いたい、という魂胆がその根底にある。

それがある限り、それらの問題はまったく本質的でなく、それについて語る価値も、本来的にないであろう。

 

 

妊娠中絶禁止と「死に方」のあり方の関係

アメリカでは最近、妊娠中絶を非合法化する州が出てきているという。

アラバマ州では5月14日にあらゆる妊娠中絶を禁止し、ミズーリ州の場合はやや条件が緩和されているが、同様の法律が可決の見込みだという。

特に、アラバマ州では、強姦や近親相姦までも禁止するという厳しいものだ。

 

こうした運動の背景には、もちろんキリスト教の信仰が存在する。

もともとアメリカは、ヨーロッパで王権と対立するくらい原理的な信仰を持った人々が移住してきただけあって、キリスト教の信仰の力はかなり強い。

そのために、日本人にとっては、このような極端な信仰は理解しがたい。

 

妊娠中絶禁止の背景にある「命の価値」とは

しかしながら、アメリカ人のこの極端さは同時に、人間の命の価値、その生まれ方と同時に「死に方」をも規定していることは、日本人にはあまり知られていない。

 

アメリカ人のみならず、キリスト教徒にとっては、人間の命は神から与えられたものだ。

だから、一度宿った命は神の意思にほかならないからそれを人間が妨げてはならない、と同時に、人間の死もまた、一つの「神の恵み」なのだ。

だから敬虔な人々ほど、自分の「死」は、天なる神に近づく喜ぶべきことにすらなる。

もちろん、自殺は許されていない。自然の死が訪れるまでが「神の意思」だからだ。

 

このために、彼らはいたずらに延命治療を行うことなく、自分の死の兆候が来たならば、それを喜んで受け入れ、天国に行くことになる。

アメリカのキリスト教は、死ぬ時に自分が神に対して罪を犯していないかと、常に死を意識している。

 

「死」に思考停止した日本人

だが一方、日本人にとっては「死」とは、「ないもの」に等しい。

普段、死について公に議論することもないし、家族友人の間ですら、問題にすることもない。日本人にとって、「死」は思考の外にあるものと言ってもいい。

 

これは、もともとは日本は貧しく「自然の死」が生きようとする意思を上回っていたために、死は厭わしいものであり、考えなくてもやってきてしまう厄災のようなものであったからであろう。

しかし、百年も経たないうちに、寿命が急激に伸び、今度は「意図せず死ぬ」よりも、「意図せずに生きる」ことがでてきた。このような短期間での急激な生死観の転換に、われわれの「常識」が追いついていない。

 

そのために日本人は自分の死も自分で受け入れられない、ましてや、他人が人の命を決めるということは、とんでもないということになっている。

そこで人が死ぬ時は、その人自身も誰も決められず、延命治療をいたずらに続けることになる。

そしてそれが、日本の健康保険の財政を圧迫し、巨額の財政赤字の原因ともなっている。

終末期医療に健康保険の約8割が費やされているという現実は、このような日本人の「死」への考え方の欠如があるのだ。

 

自分の「死」を考える必要性

だがもちろん、人は誰でも死ななければならない。

そして終末期医療をしようが、しまいが、そのことによって人生の価値が上がったり、幸せになるわけではない。

だがその時になれば、家族や他人が命を決めるということは、タブー視される。

 

そのために、日本人もまた、自分の「死」を考えなくてはならない時が来ている。

自分の命は、自分で考える時が来ている。

 

私自身も妊娠中絶禁止を法で決めることには反対である。

しかし、そのような常識に反したことの裏には、彼らなりの命の価値、信仰というものがあって、そこには、われわれも学ぶべきことがある。

事実、原理的なキリスト教の信仰は同時に、アメリカ人のボランティア精神であったり、資産家の財産の自己放棄といった、公共精神に大きく関わっている。

そしてそれが間違いなく、世界で最も人々を惹きつける大国の、その最も重要な要素になっている。

 

 

 

 

"作家が心血を注いだ作品ほど売れない"のは本当か

この度、ようやくブログでも始めようかと、重い腰を上げてみた。

このブログでは主に、"なぜ世の中がそうなっているのか"、ということを、自分なりに解明していきたいと思う。

まあ、どれだけ続くか、とにかくやってみようと。

 

さて先日、コナン=ドイル自身のことについて、まとめサイトだかで見た。

それによると、ドイルは"本当は歴史小説で評価されたかったけど、はからずもホームズシリーズで売れてしまった"らしい。

推理小説は読まないから、このことは知らなかった。

まあ、これは誇張しすぎなんだろうけど、そこで「作者が心血を注いだ作品は売れなくて、逆に適当に書いたものが売れる」ということについて考えてみた。

 

しかし考えてみれば、実はこのことは世の中ではどこにでもあることだ、といことがわかる。

 

たとえば、動物に関する本で言うとすれば、それは動物図鑑とかの一般書と、専門書の違いがそうだ。

おそらく、誰でも一度は児童書の動物図鑑を見たり、持っていたことがあるだろう。その意味では、動物図鑑は「売れている」のだ。

一方、たとえば「偶蹄類の骨格についての研究」といった専門書は、その分野の研究者や学生でなければ、まず読むことはない。つまりこっちは「売れていない」。

だが、必要な労力はもちろん、専門書の方がはるかに上だ。何十年もその分野を研究していなければ書けないだろう。

しかし、児童向けの動物図鑑は、とりあえずは通り一遍の知識さえあれば書くことはできる。その作業も専門書よりもはるかにかんたんだろう。

 

つまりは「労力をかければかけるほど、読者が限定され、売れなくなる」という現象は、何も文学芸術の分野に限ったことではなく、どんな分野にでもある、ごく当然のことに過ぎないのだ。

それが学問の分野では問題にはならず、文学芸術の分野で問題になるのは、大学などで研究する専門家は、一般の人にとってはその研究内容を評価しているわけではなく、その「地位にあること」そのものが評価されるからだ。そこに専門書は関係がない。

それに対して文学芸術では、その「地位」にあたるものがほとんどないがゆえに、その現実がもろに出てきてしまう。

 

こう考えると文学芸術の部門が、いかに「かんたんに、お手軽に」向かって行きやすいか、ということがよくわかる。

その分野ではどれほど、当たり障りのないものが売れるのか、ということも。

 

つまりはけっきょく、こういった文章は求められていない、というわけだ。

だがそれでも、私は自分の道を行こうと思う。けっきょく、表現というものは見返りのためではなく、自分の考えを世に発信する、ということだからだ。金が欲しかったら、多分別のことをしたほうがいいだろうから。