世の中の基礎の基礎にあるもの

とかく表面的なことに流されやすい現代の中で、社会のこと、人間のことについて、"なぜそうなっているのか"ということをいろいろと考えていこうと思います。

"作家が心血を注いだ作品ほど売れない"のは本当か

この度、ようやくブログでも始めようかと、重い腰を上げてみた。

このブログでは主に、"なぜ世の中がそうなっているのか"、ということを、自分なりに解明していきたいと思う。

まあ、どれだけ続くか、とにかくやってみようと。

 

さて先日、コナン=ドイル自身のことについて、まとめサイトだかで見た。

それによると、ドイルは"本当は歴史小説で評価されたかったけど、はからずもホームズシリーズで売れてしまった"らしい。

推理小説は読まないから、このことは知らなかった。

まあ、これは誇張しすぎなんだろうけど、そこで「作者が心血を注いだ作品は売れなくて、逆に適当に書いたものが売れる」ということについて考えてみた。

 

しかし考えてみれば、実はこのことは世の中ではどこにでもあることだ、といことがわかる。

 

たとえば、動物に関する本で言うとすれば、それは動物図鑑とかの一般書と、専門書の違いがそうだ。

おそらく、誰でも一度は児童書の動物図鑑を見たり、持っていたことがあるだろう。その意味では、動物図鑑は「売れている」のだ。

一方、たとえば「偶蹄類の骨格についての研究」といった専門書は、その分野の研究者や学生でなければ、まず読むことはない。つまりこっちは「売れていない」。

だが、必要な労力はもちろん、専門書の方がはるかに上だ。何十年もその分野を研究していなければ書けないだろう。

しかし、児童向けの動物図鑑は、とりあえずは通り一遍の知識さえあれば書くことはできる。その作業も専門書よりもはるかにかんたんだろう。

 

つまりは「労力をかければかけるほど、読者が限定され、売れなくなる」という現象は、何も文学芸術の分野に限ったことではなく、どんな分野にでもある、ごく当然のことに過ぎないのだ。

それが学問の分野では問題にはならず、文学芸術の分野で問題になるのは、大学などで研究する専門家は、一般の人にとってはその研究内容を評価しているわけではなく、その「地位にあること」そのものが評価されるからだ。そこに専門書は関係がない。

それに対して文学芸術では、その「地位」にあたるものがほとんどないがゆえに、その現実がもろに出てきてしまう。

 

こう考えると文学芸術の部門が、いかに「かんたんに、お手軽に」向かって行きやすいか、ということがよくわかる。

その分野ではどれほど、当たり障りのないものが売れるのか、ということも。

 

つまりはけっきょく、こういった文章は求められていない、というわけだ。

だがそれでも、私は自分の道を行こうと思う。けっきょく、表現というものは見返りのためではなく、自分の考えを世に発信する、ということだからだ。金が欲しかったら、多分別のことをしたほうがいいだろうから。