世の中の基礎の基礎にあるもの

とかく表面的なことに流されやすい現代の中で、社会のこと、人間のことについて、"なぜそうなっているのか"ということをいろいろと考えていこうと思います。

妊娠中絶禁止と「死に方」のあり方の関係

アメリカでは最近、妊娠中絶を非合法化する州が出てきているという。

アラバマ州では5月14日にあらゆる妊娠中絶を禁止し、ミズーリ州の場合はやや条件が緩和されているが、同様の法律が可決の見込みだという。

特に、アラバマ州では、強姦や近親相姦までも禁止するという厳しいものだ。

 

こうした運動の背景には、もちろんキリスト教の信仰が存在する。

もともとアメリカは、ヨーロッパで王権と対立するくらい原理的な信仰を持った人々が移住してきただけあって、キリスト教の信仰の力はかなり強い。

そのために、日本人にとっては、このような極端な信仰は理解しがたい。

 

妊娠中絶禁止の背景にある「命の価値」とは

しかしながら、アメリカ人のこの極端さは同時に、人間の命の価値、その生まれ方と同時に「死に方」をも規定していることは、日本人にはあまり知られていない。

 

アメリカ人のみならず、キリスト教徒にとっては、人間の命は神から与えられたものだ。

だから、一度宿った命は神の意思にほかならないからそれを人間が妨げてはならない、と同時に、人間の死もまた、一つの「神の恵み」なのだ。

だから敬虔な人々ほど、自分の「死」は、天なる神に近づく喜ぶべきことにすらなる。

もちろん、自殺は許されていない。自然の死が訪れるまでが「神の意思」だからだ。

 

このために、彼らはいたずらに延命治療を行うことなく、自分の死の兆候が来たならば、それを喜んで受け入れ、天国に行くことになる。

アメリカのキリスト教は、死ぬ時に自分が神に対して罪を犯していないかと、常に死を意識している。

 

「死」に思考停止した日本人

だが一方、日本人にとっては「死」とは、「ないもの」に等しい。

普段、死について公に議論することもないし、家族友人の間ですら、問題にすることもない。日本人にとって、「死」は思考の外にあるものと言ってもいい。

 

これは、もともとは日本は貧しく「自然の死」が生きようとする意思を上回っていたために、死は厭わしいものであり、考えなくてもやってきてしまう厄災のようなものであったからであろう。

しかし、百年も経たないうちに、寿命が急激に伸び、今度は「意図せず死ぬ」よりも、「意図せずに生きる」ことがでてきた。このような短期間での急激な生死観の転換に、われわれの「常識」が追いついていない。

 

そのために日本人は自分の死も自分で受け入れられない、ましてや、他人が人の命を決めるということは、とんでもないということになっている。

そこで人が死ぬ時は、その人自身も誰も決められず、延命治療をいたずらに続けることになる。

そしてそれが、日本の健康保険の財政を圧迫し、巨額の財政赤字の原因ともなっている。

終末期医療に健康保険の約8割が費やされているという現実は、このような日本人の「死」への考え方の欠如があるのだ。

 

自分の「死」を考える必要性

だがもちろん、人は誰でも死ななければならない。

そして終末期医療をしようが、しまいが、そのことによって人生の価値が上がったり、幸せになるわけではない。

だがその時になれば、家族や他人が命を決めるということは、タブー視される。

 

そのために、日本人もまた、自分の「死」を考えなくてはならない時が来ている。

自分の命は、自分で考える時が来ている。

 

私自身も妊娠中絶禁止を法で決めることには反対である。

しかし、そのような常識に反したことの裏には、彼らなりの命の価値、信仰というものがあって、そこには、われわれも学ぶべきことがある。

事実、原理的なキリスト教の信仰は同時に、アメリカ人のボランティア精神であったり、資産家の財産の自己放棄といった、公共精神に大きく関わっている。

そしてそれが間違いなく、世界で最も人々を惹きつける大国の、その最も重要な要素になっている。