世の中の基礎の基礎にあるもの

とかく表面的なことに流されやすい現代の中で、社会のこと、人間のことについて、"なぜそうなっているのか"ということをいろいろと考えていこうと思います。

元農水次官長男刺殺事件は、まさに日本の陥っている過ちと同じだ。「まじめ」とい自負を捨てるべき

ハインリッヒの法則と同じように、一つの大事件の背後には、多くの未遂に終わったインシデントが存在する。

たいていは、最悪の自体に至るまでにどこかで歯車が外れる。しかし同じような事態が何千、何万と起こっている内には、今回のように最悪の事態となってしまう。

 

しかし今回この事件は、まさに日本の問題を凝縮したように感じた。

つまり、問題が起こっても、それを直視することなく「これが普通だ」と先送りを繰り返し、ある日突然「もうだめだ」といって破綻してしまう。

実際に、大東亜戦争の悲惨な敗北も、この事件と同じだった。客観的に見れば、明らかに連合国やアメリカを相手に戦争するのは無謀で、実際に負け戦が続いたが、それを国民に隠して、ついに原爆投下という破綻が訪れてしまったのだ。

このような事実には、人々のどんな思い込みがあったのだろうか。

 

「まじめ」という形式拘泥

日本人はもちろん、世界的にもまじめな人々だと言われているし、自負もしている。

しかしまじめというのは、物事を確実に、着実に実行する一方、また形式拘泥を生み出してしまう。

 

「まじめな」人々は無意識の内に、「自分は端から見ても正しく、善良な存在なのだ」という自負を持っている。そしてまた、他人や社会の人々、特に政治家や経営者などの社会の指導者層には、それをより強く求める。

こうして「まじめな」人々は、他人や社会、そして自分自身をも、「正しさ」、というより「正しく見えること」で満たそうとする。

 

戦前、戦中においては、これが「国家のために尽くす」、それはつまり、学校のテストが進学や社会において本当に役に立つかどうかは関係なく、それで満点を取ることが「正しい」のと同じように、「国家の求めることを実現する」ことが「正しい」ということになった。

すると、優秀な兵士になったり、物質的、金銭的な奉仕をしたりして、戦争遂行に協力すること事態が「正しい」こととなる。

そして指導者の側からは、それを妨げないことが美徳であり、「正しい」ことである。その献身は確かに、国民の善意であるからだ。

しかしそのために、国民に負けている、という事実を伝えられなくなってしまった。それは、これまでの国民の善意を無駄にすることになってしまうからだ。

それに、その事実を伝えると、相手の反発を招く。それは相手との「和」を乱すことになってしまう。

こうして、政府と国民のそれぞれの「忖度」から、昔の日本人は自分たちの「正しさ」を、外から否応なく妨げられるまで変えることができず、悲惨な敗戦に至ってしまった。

 

今回の事件も、元次官の「自分は正しい」という無意識の自負が、世間体という名のもとに、長男には問題がある、という事実を認めたくなく、世間から隠そうとしまったのだろう。もし、「自分も完全ではない」ということを自覚していたら、このような破綻に陥る前に、どこかで問題を認識して、解決しようとしていたはずだ。

 

勉学に励み、キャリアを積んでゆけば無意識の内に自然と積み上がって行く「自分は正しい」という自負は、うまく運ばれている日常の中では有益であるものの、問題の認識においては、重大な過ちを持っている。

 

トランプ大統領の「正しさ」

それが具体的にどういうことか、ということを見るのにうってつけなのは、トランプ大統領の存在だ。

彼が事前のヒラリー優位の下馬評を下して大統領に当選したとき、日本ではその過激で「下品な」言動に、反発があった。日本人の感覚から言えば、あのような慎みのない言動をしている人物は、そもそも政治家として失格だ。

 

だが見方によっては、彼はとても「民主主義的な」指導者であると言えよう。

彼は、アメリカの問題がどこにあり、人々の不安と本音がどこにあるか、ということを、白日の下に晒した。もし彼が失敗をしたとしても、その失敗を元に、これからどうやって運営をしていこうか、という指針になる。

明確でわかりやすいイシュー、そして大胆な実行は、正しいことだろうと間違ったことだろうと、問題を明るみに出し、その対策を考えるきっかけとなる。

トランプ大統領の当選は、政治家としての資格云々よりも、現実での明瞭性、実効性を求めるアメリカ人の現実的で実際的な性質がある。

 

そして民主主義においては、その方がよっぽど賢明なのだ。

民主主義が根本的に根付いていない日本はこのまま政治家も国民も、「実効性」よりも「善良な性質」を問題にし、このまま問題を直視できず、破綻に向かって行ってしまうことは、ほとんど確定なのだ。

とにかく、われわれ個人としては、外面がどうか、というより、それが現実にどういう影響を与えるか、ということで見るべきであろう。いつもケンカばかりしている乱暴者も、他の人々が暴漢に襲われそうになったら、善良なだけで勇気がない人間よりも、よっぽど人々のためになるからである。

そのためには、無意識の「自分は正しい」「他人も正しくなければならない」という思い込みを改めることであろう。